愛を求める懇請。


外側に自我を見ると、
あ〜またか。と思う。

また私が否認しているものを投影しているのか〜と。

私が罪を見たいと思っているから、見ているのだが、これは、軽く失望している。

これは、なんだかおかしなことになっているぞ。と気づいた。


そうではなく、

あ〜、また自我か。
と思ったなら、

あ〜これが、私の愛を求める声なのだ。
と見るなら、それは赦しにつながっていく。

それが、私自身の愛を求める声ならば、
愛を求める声には愛(=聖霊)で応えるしかない。

なので、私はもう自我を教師とはせず、
聖霊を教師として選び直す決断をする。

そうであるなら、
外側に自我を見ても、失望(動揺)せずに見ることができる。

そして、それを喜んで受け入れ、赦しをするだろう。

なぜなら、投影から自我に気づけるなら、
そこから直ちに聖霊=平安を思い出せすことができるからだ。


あなたがその愛を見たいと思うのなら、愛に対抗する防衛の一つひとつの根底に、愛を求める懇請が潜んでいることを認識する以上に良い方法があるだろうか。そして、愛の実在性を学ぶ方法としては、愛を求める懇請に愛を与えることを持って応える以上に良いやり方があるだろうか。

(T-12.Ⅰ.10:1.2)

愛を求める呼びかけがあるところでは、あなたの本性ゆえに、あなたは愛を与えないわけにはいかない。

(T-14.Ⅹ.12:3)

ACIM KUUKA

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