「怒り」について考察してみました。

「怒り」について自分なりに考察してみました。


なぜなら、それはあなたが知覚するものと矛盾し、そのためあなたは攻撃されたように感じるからである。その結果、怒りを覚える。(T-30.Ⅰ.3:2-5)

というのも、あなたはすでに怒ってしまっているからである。(T-30.Ⅰ.6:2)


分離を信じた自己概念Aの中は、
自分の犯した罪を信じることにより、
神への憎悪と恐れに満たされているので、
私たち自身の内側がそうであり、
この世界のすべてはその投影でできています。

なので、
私たちの心は、そのような絶大な怒りや憎しみや恐れを抱いているのですが、
無垢なる顔や世界によってそれが隠せている訳です。

しかし、そもそもが、
怒りたくて、恐れたくて、分離を信じた訳なので、
本当は四六時中、私たちは怒りたくてムズムズしているのです。

なので、世界や他者や、個人の自分の中に、少しでもきっかけを見たなら、
即座にそれを実行したいと狙っているのです。

そのために、知覚を使って、その一瞬を、
狙いを定めて待ちかまえている状態なのです。


だから、
蚊が耳元にブーンと来ただけで、
誰かが自分に目を合わせただけで
「よし来た!」と喜んで怒るのです。

そうしておいて、当たり前のように蚊をやっつけたり、なんとなく不機嫌になる訳です。


そして、その怒りは、自分でも気付かないくらいの些細な怒りでも、誰かを巻き込むくらいの大きな怒りでも、怒りは怒りであり、
差異は関係ありません。

それは、神に対する憎悪であり、
"自分をこのようなものにした"神を憎む殺意の現れであり、
それと同じことを、自分は神にしたと信じているので、
必ずいつか仕返しされるだろうという恐れているのです。

なので、それは、1匹の蚊であっても、
大量虐殺であっても同じ怒りであり、
それはどれも神に対する憎悪であり、
神に対する恐れでもあります。


それなのに、私たちは無垢なる顔や世界によって、その怒りを隠せていると信じています。

しかし、少し内側を見るならば、怒りや恐れで溢れており、
「内的状況の外的映像」により、
私たちは、それが映し出されている世界の中の映画の主人公なのだと気づいてくるでしょう。


それを自覚するなら、ここは天国の愛や平安とは正反対の世界であり、
そんなところに望んで居続けているとは、
コースを学んでいるならば、
本当に狂っていると認めざる負えなくなります。

ということは、
「私の決断が間違っていました」と認めて、
イエスや聖霊の助けを受け入れるしか救いはないということもわかってきます。

そうすれば、私は選び直したいと真に望むので、それは必ず叶えられます。


私たちは、怒るタイミングを自ら仕込んで怒っています。

常に不機嫌になりたくてウズウズしているのです。

なぜなら、それが世界や肉体を実在させている分離の証拠となるからです。

それはまるで、
お笑い芸人のコントのようなもので、
ボケとツッコミのネタと人形を仕込んで、
自分で操って自分で興じているようなものです。

こうやって見ればみるほど、
自分は肉体だと信じているなら、
すでに怒りや恐れを持っていて、
そうしておいて、
それを外側で見て、外側で何とかしようとしている。

本当にそれをやっているな〜と、
自覚するのでした。

ACIM KUUKA

「奇跡講座の学びと実践」のシェア。 この動揺や喜びは何のためのものだろう。