罪なき世界を見るために。


私たちが学び、実践している赦し。

救いの秘密である、
「自分で自分にこれを行っている。」

ことを思い出し、
そして、

「それは一度も起こっていない。」

という、
私たちが否定してしまった真理を、
再び否定することにより、
分離は一度もなされていなかったことを学んでいくための訓練。


よく見るなら、この聖霊の持つ考え方とは、
結局は全く罪を作らない考え方なのだなぁということに改めて気づきました。(今更、、、)


他者はいない。世界はない。

すべては心が見ている夢であり、
原因はその心の願望による決断。

しかも、その選択肢すら実在していない。

結局なにも起きていない。
すべては終わっている。


となると、
全て自己責任という捉え方なのて、
罪や攻撃の対象などをでっち上げることもできないし、

しかも、自己責任でそれがあったとしても、
結局はすべてが帳消しとなる考え方なのだと。(無・責任(罪)とも言えるかも)


ということは、
今私たちは、これとは全く正反対の、

罪ありきの、罪を実在させるための考え方を望んで信じているということになる。

だから、見るものすべてが、罪あるものとして見ていて当たり前なのだ。


なので、全く別の、罪など作れない(実在させない)見方、考え方。

それを学んで身につけていく。

なぜならそれだけが救いだから。


分離、罪などあり得ない。

それが聖霊の声であり、
私たちがすでに否定してしまった真理を
訂正していく。

その結果、聖霊とともに
罪なき世界を見ることができる。


そういうことなのか〜と
今更ながら、また納得〜

という独り言でした。

ACIM KUUKA

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