私は兄弟を罪なきものと見たいだろうか?


私は兄弟を罪なきものと見たいだろうか?

否!
絶対に罪なきものとして見たくはない。

なぜなら、私たちはこの今も、
自我と同一化しているので、
正直に答えるなら、
そのように答えることになります。

兄弟に罪を見るなら、自分にも罪があるとして見ることができる。

兄弟が苦しむものに見えるなら、自分も苦しむことができる脆弱なものとして見ることができる。

だから、兄弟に、世界中に、
罪を見たいし、苦しみを見ていたいのだと。

それが、私が神から分離できたということの証となるからです。

なので、私たちは望んでそれを見続けています。
しかも、自分でそのような状況を作り上げてまで。


私は兄弟を罪なきものと見たいだろうか?

罪や苦痛のある世界や肉体の私には一切の救いや希望や幸せはなく、
それを見続けることの代償を学ぶなら、

私は聖霊とともに、
兄弟を罪なきものとして見たいと望むだろう。

そして、聖霊とともに見るなら、
それは罪なきものとして見える。

聖霊とともに見るならば、
それは苦しみなきものとして見えてくる。


そして、
それは罪なきものとして同じだったと悟るだろう。

そして、これが、
私たちの利害の一致というものであるのだろう。


そのように自覚するなら、

私は兄弟をどちらの教師とともに見たいだろうか?
と問うとき、

私は聖霊とともに、兄弟を罪なきものとして見ることを望みます。

となってくるだろう。

ACIM KUUKA

「奇跡講座の学びと実践」のシェア。 この動揺や喜びは何のためのものだろう。