罪、罪悪感、恐れの別の見方。


最近は、忘却のベールが上がってきたというのか、薄れてきたというのか、
自我との同一化に気づいて心を思い出していくと、すぐに存在論的罪悪感の部分に触れるような感じがしています。

それは、まさにあの第二分裂の瞬間の、「やってしまった〜!」という世界を作り出すくらいの根源的な罪・罪悪感・恐れと言えるような嫌〜なものです。

だから、
非常に見たくないので、
心を見るときは、
「よし、見るぞ!」と
ある意味どこかで意を決して、
見るようにしていました。

それでも、自我はいとも簡単に、何かで気をそらせたり、何かを起こしたりと、
見ないように見ないようにさせてきます。

それでも、もう一歩深く、もう一歩高く見ることを意図して見るように心がけてはいました。

今朝も、見るぞとして、恐れを見ていきました。

私たちはこれを非常に嫌なものとして見ていますが、これは望んで体験している願望が叶った状態なはずです。

なので、この罪悪感や恐れを充分味わってみよう!として、全体に広げてみました。

すると、今まで自分の持病というか、
あれをしたらこうなるというような当たり前の痛みや苦痛が、移ろいながらどんどん感じられます。

今までも、このようにやっていたつもりのときさありましたが、
やはり、これらの苦痛や痛みの原因は外側の状況や行動ではなく、この間違った決断による罪悪感や恐れの投影だったということのさらに深い体感となりました。

そして、それを堪能する(感じきる)ならば、
ある時点でふっと消えていきました。

しかし、よく見ると、まだまだ鉄板のようなもので隠されているものがあるようにも見えます。

しかし、それはまた、どこかのタイミングが来たら開かれていくのでしょう。


<以下の部分の内容には、改めて気づきがあり、次のブログ記事に引用して書いてありますので、そちらをご覧ください。>



しかし、この、罪・罪悪感・恐れという愛の障壁も、神の子の願望を叶えるがゆえの、
決断の主体に戻らないために神の子の願望を守っているものと見たならどうでしょう?

自分の願望を叶えるものを大切に保護するのは当たり前のことです。

そして、それを嫌なものではなく
神の子にとっての大切なものとしてみるとしたらどうでしょう?

本当はそれらは実在しないのですが、
今はそれを完全に信じているので、それは自身の一部なのです。

その奥にある大事な宝物を守っているとしたなら。

自我は、決断の主体を思い出さないために守っているつもりな訳ですが、
それは、神の子の願望を叶えるために守っている訳で、
それは結局は、神の子が真の自分を思い出す唯一の宝物な訳で、
どちらにとっても神の子の大切な宝物を厳重に守っていてくれているとしたなら、
ありがとうと思えてくる訳です。

すると、なんだか、
罪、罪悪感、恐れも愛に見えてくるのです。

そうすると、そうやって受け入れたからなのか、今までになく、す〜っと抵抗なく消えていきます。

もしかして、これが聖霊の見方、
なのかはまだわかりませんが、
そうであれば、これも愛を求める声の現れの一つなのかもしれないな〜と思いました。

なぜなら、心が非常に癒されて、
感謝に満たされているからでした。


<後半部分の内容には、改めて気づきがあり、次のブログ記事に引用して書いてありますので、そちらをご覧ください。>


ACIM KUUKA

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