イエス先生よりも自我先生。

自らの決断により、分離を信じた瞬間、
真の自己である神の子のアイデンティティーを失ってしまった心である私たちは、

「私とは何か?」※1

という答えを探し、

そこで、自我の、「私とは肉体である。」という答えを採用して、知覚による証拠を疑いもなく信じ続けてきました。


私たちは、「私とは何か?」という質問の答えを持たないでいることが、とてつもない恐怖であり、
その恐れを再び感じるくらいなら、
嘘でも良いから自我の答えを信じていた方がマシなのです。

その自我の答えを疑う(別の見方)なら、
再び「私とは何か?」の質問の答えを失い、
恐れの中へと、答えを探す旅(赦し)に出ないといけなくなるからです。

なので、私たちは、慣れ親しんでいる自我の考えに疑いすら持ちたくはないのです。

再び、「私とは何か?」という暗中模索の恐ろしい戦場へ旅立つくらいなら、
嘘でもいいから、自我の答えを採用して、
偽りでもいいから、世界の中の愛や平安を信じ続けていたいのです。


しかし、
私たちはどこかで、この答えが嘘だということを知っているので、
「この答えを信じていても、幸せになれないんじゃないか?」ということも何となくわかっています。

「私とは肉体である」なら、
必ず脆弱で惨めに死にゆくものだからです。

なのでどこかで、これは本当だろうか?
と、疑いを持ち続けています。


しかし、なんとなく気づいていても、
それをかき消して
やっぱりこれでいいやと妥協し続けるのか、

疑いから、自我を疑問視することにより、
やっぱり真実を思したいと思うのか。。。

そのとき、私たちは奇跡の方向へと向き、
帰還への旅が始まります。

そして、いつかは必ず完全に忘れてしまった真の自己のアイデンティティーを思い出し、実相世界に到達することになります。


しかし、私たちは、この今も
(自分で)失った自己のアイデンティティーの
答えをくれた瞬間から、自我を教師として信頼し切っています。

個人の肉体としての自分がスタートしたその瞬間から、自我を信頼し切っているのです。

なので、その時間と空間の枠の中で、
イエスや聖霊が真実を教えてくれても、
単にちょっかいをかけられているだけのようにも感じます。

そして、そんなイエス先生(聖霊)なんかよりも、
時間の始まりから答えを教えてくれている
「自我先生の方が正しい!」と称賛している状態なのです。


コースは、この状態から、
自我への信頼を取り消していくことにより、イエス先生や聖霊からの助けを邪魔しないように学び直していくわけですが、
それは容易ではないことがわかってきます。

自分を肉体だと信じながら(=自我先生を信じていながら)、
無理矢理イエス先生や聖霊を信じようとしても、まず無理だということです。


しかし、
「私とは何か?」の真の答えを思い出したいなら、
その、暗中模索の恐ろしい戦場の旅路には、イエス先生や聖霊がいなくては本当に無理だということがわかってきます。

自我との同一化から離れ、
聖霊と同一化するまでの不安と恐れと葛藤の中、暗闇に灯りを灯しながら導き、
それをともに見てくれる。

そして、その時間と空間を超えたところで、
私たちの真のアイデンティティーを保持して待っていてくれるイエス先生や聖霊を、
いつも傍に感じることなくしては、
自我や世界や肉体の牢獄から、
脱出することは本当に不可能です。

それがわかってくるなら、
私たちは常にイエス先生(聖霊)の声を聞き入れ、その手を取っていたいと望むことでしょう。



※1:私とは何か?
については、もりGさんのブログ
「自分とは何か」が、非常に詳しくわかりやすく書いてありますので、ぜひそちらをご覧ください。


ACIM KUUKA

「奇跡講座の学びと実践」のシェア。 この動揺や喜びは何のためのものだろう。